創造と制約
2001/01/30

ショスタコーヴィッチ、という20世紀ソヴィエトの作曲家は、政権から作風を強制された不幸な例ですが、なにか作品を作るうえで制約は有ったほうがよい、という考え方があります。

女優が使えないので女形が発達した歌舞伎や、性表現が規制されているので独自に発達した昔の邦画やインド映画、イラン映画などを念頭においての意見だと思います。 これに対し「作品へのあらゆる制約は有害である」という考え方もまた存在します。私はどっちかというとこちらに荷担したいと思います。

なぜなら作品を作る時点で、時間、場所、予算、その時代のテクノロジーと「自由」なようでいて物理的な制約はすでにかかっているからです。 作品を完成させるうえで必要な制約は「締切」だけでしょう。

しかし締切というのも善し悪しあります。知り合いの画家にきいた話ですが、その画家は15号の作品を描くのに50時間かける/かかるそうです。しかし、美術大学の入試では同じ15号の絵を描くのに3〜5時間。これは「作品」を作るのには最低のことですが、能力を見るのが入試なのでしゃーないかなっと思います。事実1時間だろうが30分だろうがその作家(もちろん学生)の力や潜在能力は伺えますしね。もちろんこれは「その人」を見るのであって「作品」を見る/作ることでないのは言うまでもありません。



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