楽譜は天気予報
2001/11/06

ジョーザヴィヌルというキーボーディストが、作曲込で初めてマイルスデイヴィスの録音セッションに呼ばれ、「曲はばっちりですよ(意訳)」みたいなことを言ったら、マイルスは「楽譜なんてものは天気予報のようなものだ、やってみないとわからない」と言ったとか言わないとか。かのザヴィヌルのバンド「ウエザーリポート」はこのエピソードから取られている、という話を聞いたことがあります。

このエピソードの真偽はともかく、ジャズ畑のヒトにとってはそれほど楽譜は軽いもの、といえると思います。ではこれはジャズ特有の現象か?と言われればそうではなく、本来すべての音楽ジャンルに当てはまることだと思います。

楽譜を絶対化しがちなクラシックにおいても、楽器により音を出して「音楽」になる事情には変わりありません。また、作曲家のアイディアを伝達する「不完全な」メディアでもあります。 なので楽譜が天気予報なのはクラシックでも変わりないのですが、そうは思わない原理主義者がいるのですね。さすがにこの世界で高いギャラをもらっている指揮者はそうでもないようですが。

つまり、楽譜そのものは楽曲分析の出発点、根拠になるのですが、それ自体で完結するものではない。仔細に見れば「ミス」も存在し、かなり演奏者の想像力で補わねばならないところがあるハズです。

私の知っているところでは、チャイコフスキーという人は、「ffffff」とか「ppppp」という記号を平気で使う人なのですが、これをあんまり真に受け過ぎると、演奏不可能になる。むしろ楽曲全体での相対的な強弱で考えないと大変なことになるワケです。

また、バルトークという人のメトロノームは半分壊れたシロモノだったそうで、彼の速度記号を真に受け過ぎると、やはり演奏不可能だったりします。そーでなくともしんどい曲が多いので、演奏はどっちみち大変なのですが。


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